日々のエッセイ

葬儀も儀式や形式にこだわらず、シンプルで心の通うものに

葬儀がおわった。あとは、手伝いの下働きのおなじ組の連中との精進落としで、酒と食事(ぼくは酒を絶ったので飲まないけど)をいただく。となりのMさんがクリスチャンだったので、仏教とキリスト教の葬儀について語りあった。
キリスト教からしてみると、仏教の葬儀は不可解だと思う。まず、葬儀に費やされる時間のほとんどがお経と陀羅尼(真言というか呪文のようなもの)。それは荘重で厳粛だが、まったく意味がわからない。そこは、不思議なものだ。もしや、よんでいるお坊さんも、意味がわからずとなえているかもしれない。
たとえば、「大悲心陀羅尼」。「なむからたんのーとらやーやー。なむおりやー。ぼりょきーちーしふらーやー。ふじさとぼーやー。もこさとぼーやー。」と、えんえんと続く。これ、サンスクリット語の音の響きを中国で音写して、それを日本式に音読している。これ、わかるわけがない。
そうして、戒名。「○○居士」とあるので、相当に高額なお布施(お金)になると思うのだが、これもまた不思議。キリスト教でいえば、洗礼名。その名前をもらうのに、お金を払うということはありえない。
たいせつなのは、死んだ後じゃなくて、まさに死にゆく時だと思う。けれども、いまの仏教の出番は、死んだあとからになる。キリスト教は死の間際にきちんと関わることができる。臨終となると、神父(牧師)さんが駆けつける。枕元で安らかに天へ召されるように祈る。家族も枕元に付き添って、一緒に祈りを捧げる
そして、葬儀の内容は、わかりやすい。まず、神父(牧師)さんが、故人の生前の生き方や人柄を語る。そして、説法。聖書の朗読、賛美歌、祈りということだと思うが、聞いていて意味がわからないということはない。ラテン語で聖書をよんだり典礼をするわけじゃない。参列者から香典というようなものは、ほとんど受けないとも聞いた。もちろん神父(牧師)さんに対するお布施というものもない。
ざっと仏教とキリスト教の葬儀のありようを、比較してみた。まあ、文化の違いってことになるけど、考えさせられる。儀式や形式にこだわらず、もっとシンプルで心の通うもの、納得のいくものにしていけたらいい。ということで、来年は、「看とりとおくり」について、連続シンポジウムを展開していこうと考えている。

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