日々のエッセイ

アイガモの行く先は

アイガモはずっと田んぼで買い続けるわけではない。稲穂が出たら田んぼから出す。カモくんたちの雑草取りの仕事は、もうおしまい。そのまま田んぼにいられると、せっかく実った稲穂が食べられてしまう。

そのあとは、どうする? ──ここからが悩みどころ。まずは、冬まで飼い続ける。くず米は250キロあるので、冬までもちそうだ。秋の収穫のときのくず米も補充できる。しかし、飼う場所も悩みどころで、竹林、水をたたえたマコモダケの田んぼ、稲刈が終われば刈田に放す。

でも、そのあとは? ──やはり、処分することになる。農家民宿で引き取ってくれるところもある。料理屋さんで、買ってくれるところもある。1羽700〜800円程度というジビエ料理屋さんも。また、兵庫県の食肉加工場にもっていくと、一羽1,000円で解体、パックにして宅急便で届けてくれる。吉田町のハム工場では鴨肉ハムの開発をしていて、そちらでは1羽200円で買い取ってくれるという。

さて、どうするか。次の田植えには、成長したカモは使えない。植えたばかりの稲を倒してしまうからだ。ヒナでないと、だめなのだ。まずは、冬まで飼って、行き先をかんがえたい。

ひとつは、自分たちで解体する。解体ワークショップもやる。かわいがったカモの〈いのち〉を奪うのは、とてもつらいが。みずから解体して、肉としていただくのは意義のあることと思う。

いまの時代、多くの人が肉や魚をたべる。しかし、自分で解体する人はいない。きれいに切り身になったものを買ってきて料理するだけ。いのちを止めて調理することは、まずない。かつては、わがやもニワトリを飼っていて、父がニワトリを捕まえて首をはね、母が調理していた。ぼくたちきょうだいは、熱湯につけた鶏の羽をむしるのが仕事だった。

生きものの〈いのち〉を奪うのは残酷だ、と非難されることもある。すべて〈いのち〉あるものをたいせつに、と教える人もいる。ただ、そういう人がいっさい、肉や魚を食べないのかというと、そうでもなかったりする。野菜だって〈いのち〉だ。しかし、それは食べてもいいのだというひともいる。自分で〈いのち〉を奪わなければ、肉でも魚でも食べてもよい(戒律の解釈ではそうなる)、という仏教徒もいる。

ぼくはなにも、積極的に〈いのち〉をうばえというのではない。自分の手で、〈いのち〉をうばい、みずから調理するという過程を体験するのも意義があると思っている。

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