日々のエッセイ

ほとんど期待もアテもなければ、ちょっとしたことでも、幸せを感じる

幸せというと、南の島に行って、椰子の木陰で透明な海を眺めてのびりするというイメージ。だけど、いまのぼくにはそれはありえない。追われ続ける山積みの仕事と子育ての暮らしだからね。

でも、そもそも幸せは何だというと、達成ではない。どこに行った、なにをした、おいしいものを食べた、いいものを観た。そういうところとは、あんまり関係ないのかもしれない。

「期待」と「事実」というところからみてみたい。

だいたい人は、きっとこうだろうな、こうなるばずだという「期待」や「アテ」をもって生きている。期待通りにことが運ぶのは、すこし嬉しいけどあたりまえ。そうならないと、がっかり。つまらないと感じる。怒りが出ることもある。

逆に、ほとんど期待もアテもなければ、ちょっとしたことでも、幸せを感じる。この些細な暮らしの出来事に喜びを感じられる、新鮮な出会えるを味わえるといのが、幸せのひとつの要素かもしれない。

昨日は、雑誌の取材の仕事の帰りに、ひとり暮らしのSさんを訪ねた。80を超えておられる。クルマも処分してバイクだけで移動されている。ひさしぶりで元気かなあと、栗を土産に立ち寄った。

この方のオーディオセットは、1本でも100万円くらいしそうなタンノイのすごいやつで、たまに訪ねては聴かせてもらっている。

かつては仏像やお寺、伝統芸能のフォトグラファーで 、いつもはそんな話ばかりをする。栗をお渡しして、立ち話で帰ろうとしたら、ちょっと寄って行けと言う。

こんな本を読んだよと、いきなり最近の読書の話からはじまる。日米地位協定と憲法改正のこと、憲法9条の歴史の経緯、日本とドイツの戦後処理、江戸時代の百姓の暮らし、昭和市の年表を紐解きながらの話となった。

山里では、こういう話を丁々発止とやりとりする人はいない。Sさんも、そういう友達はひとりもいない。というので、双方、会話を楽しんだのであった。

ところで、ふたりとも年をとってきたので、固有名詞がでてこないことがある。日本の古い坊さんで、あちこちの寺を作ったり温泉を掘ったりした人、あれはだれだっけ……。うん、いたねそういう人。「ギョウ」まででてきたけど、次が出てこない。ふたりで、名前はなんだっけかなあ。

うーん、空海じゃないし、慈覚大師じゃないし、役行者でもないし。えーとえーと、東大寺の勧進もした人……。春野町の秋葉山もひらいたひと。それでも、出てこなかった。帰りのクルマでの中でもでてこなかった。帰宅して、パソコンで調べて、出てきた。ああ、行基だった。

ま、そんなことで、日本の歴史、伝統文化、仏教のこと、政治のこと、あちこちと話が飛びながら語り合えるというのは、たのしいことであった。

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