日々のエッセイ
7.212018
ひとり暮らしの老人のケース
あかりを連れて、ご近所で夫を亡くされた方の弔問に行ってきた。葬儀には行けなかったが、仏前で「開経偈」「舎利礼文」「普回向」をよませてもらう。あかりも、リンを打って和した。
あかりは、なにも知らずに楽しそうに踊っていたが。まあ、それも供養になるのだと思って制止しなかった。
夫は92歳で亡くなる。ご本人は83歳。はるか山の方から出てきたので、夫の兄弟・親戚もほとんどいない。すでに集落は土砂崩れで消滅している。また本人は、西日本から嫁いでこられたので、近くまったく親戚はいない。お気の毒に、一昨年、娘さんを亡くされている。
ということで、まったくのひとり暮らしとなる。山里で独居老人はたくさんいるが、クルマで1時間以内のところに子どもたちはいる。また、親戚つながりが近隣には多い。なので、独居老人といっても、こういう方とは事情は大きく違う。
不便な山里でのひとり暮らしというのは、たいへん。クルマの運転はできない。バスはほとんど来ない。駅もない。買い物は不便。友だちも、年を重ねているので、歩いて訪ねてくることもなくなる。
話し相手がいない。孤独になっていく。雨の激しく降る日、風の激しく吹く日など、不安で仕方がないという。民生委員は、月に一度くらい訪ねてくれるという。
ぼくは、たまに立ち寄らせてもらう。頭のいい方だし、話題も豊富、落ち着いたやりとりができるので、気が休まる。あかりも、嬉しそうにしている。そういうひとり暮らしの老人の家を、数軒、訪ねたりするのだが。
病気になったらどうなるのかねぇ。ボケたらどうなるのかねぇ。先のことなど考えられないねぇ。どうしようもないもの。そんな話をするのだった。
たまにデイサービスなどに寄ると、車椅子でテレビの前で、大勢がうなだれて無反応な光景を見るという。そうした晩年はおくりたくないものだという。たしかになぁ……。
こうした人達が気楽に寄り集まれるような、場所があるといい。みんな語りたい、話を聞いてもらいたいのだと思う。
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