日々のエッセイ

王子製紙のものがたり、そして集落の悲しみの本の執筆 木下恒雄さん

木下恒雄さん(83歳)が、いま原稿500枚の「王子製紙の記録」をまとめている。事実の記録に特化したものだ。木下さんは、これまで20冊余の郷土史を出版している。

明治時代に王子製紙ができたことで、春野の町ができていく。春野の集落は、この会社が基礎にある。そして、山里は林業やお茶で繁栄していく。

現在はこうした仕事場はなくなり、林業やお茶も振るわないために、過疎高齢化が起きているわけだ。(1950年台の3分の1、10年で25%近くの人口減少率)

その王子製紙の成立の過程が、地元では、その記録がほとんど残されていない。それで、木下さんは資料をまとめて本にしようとしているわけだ。

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じつは、木下さんは、印刷会社が閉じてしまって困っていた。「じゃあ、おんなじ値段で引き受けましょうか」ということにした。

ぼくのほうは、本の企画、執筆、発信、デザイン、印刷、製本、販売と、まあなんでもこなしていこうと、舵を切っているところだ。得意分野をがんばらないとね。田んぼと畑と力仕事は、無理と自覚。

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木下さんはこれが完成したら、次の書きたいのは「山の集落の悲しみ」だという。

太平洋戦争では、それまでのいちばんの働き手、一家の大黒柱、妻と乳飲み子を残した青年が兵隊に取られた。山里には、兵士を見送る送迎台が残っているが、乳飲み子、幼い子供を連れた妻が、泣きながら夫を見送っていたわけだ。

そして、かれらの半数は、二度と山には返ってこなかった。戻ってきたのは、桐の箱に納めた石ころのみであった。靖国神社に英霊として祀られ、故郷に忠魂碑が立てられても、遺族の悲しみは、どんなであったろうか。そして、戦後、どんなに暮らしに困ったことだろう。

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そして、木下さんが小さい頃に見た風景。村のある役人が、ものすごく尊大に威張って歩いていた。その人を見ると、村人がみんなへいこら、へいこら頭を下げていた。

庄屋や大地主でもない彼が、どうしてそんなに威張っていられるのか、不思議だった。……。周囲に聞いてみると、その理由がわかった。赤紙の召集令状を、どこの家に送るのか決めるのが、その役人の仕事であった。

どの村から、何人の徴兵をという国からの要請がある。実際に、だれを戦地にいかせるのかは、役人が選ぶことになる。すなわち役人の腹先三寸で決まる。

こうした話も聞いた。村の実力者の息子は徴兵されなかった。どうしたか。村の目を憚って、遠くの村に住まわせた。若い青年がいたら目立つわけだ。なので、近隣には遠くに働きに出ていると言って、目立たせないようにした。そして、召集令状を逃れた。そのような事実も書き残していきたいという。ちなみに木下さんには「山国兵士の出征物語」という名著もある。

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昨日、廃校になった熊切小学校と幼稚園を視察した。その敷地の小高い山上に忠魂碑があった。これは、かつての町の遺族会がつくったものだ。

だがいまの時代、忠魂碑があっても挨拶しないし、手を合わせる人もいない。思いを馳せることもない。

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