日々のエッセイ

『死んだらおしまい、ではなかった』という本をもう一度読みたい、と

『死んだらおしまい、ではなかった』(大島祥明著 PHP研究所)という本をもう一度読みたい。あの本の内容が印象的で、そのとおりだと思った。いまおやじがなくなって、もういちど読みたくなった──先日、亡くなった天野さんの息子さんから電話があった。天野さんの葬儀には、山里の同じ組として、お手伝いさせてもらった。故人には、たくさんのお世話になった。

どんな本か。2,000件以上の葬儀をおこなったお坊さんの体験だ。かれは、僧侶として「死んだらどうなるのか」という意識で、深々と葬儀を執り行ってき た。800件目くらいから、死んだ人の意思と思われる「なにか」を実感していく。それを遺族に確かめ検証していく。かれはひとつひとつを克明に記録して いった。データは1300件くらいある

死んだ人はどうなるのだろう。おしまいなのか、それとも続いていくのか。死後も本人とが「ある」としたら、いまどういう気持ちでいるのだろうか。成仏というのはあるのか、ないのか──その思いで、毎日のように葬儀に携わったお坊さんの実体験だ。

どうせオカルト的で宗教がかった内容なんだろう。そう思われるかもしれないが、一つひとつ体験、検証、記録としていくというかなり科学的なものだと思う。

で、かれは言う。ほんとうの供養は、遺族が故人のことを偲ぶことに尽きる。遺族の心がちゃんと故人に通じている。故人は、遺族の思っていること、話してい ること、みんなそばで聞いて届いているらしい、と。盛大な葬儀や立派な戒名やお墓、位牌、お坊さんのお経などで故人が供養されるわけではない。たいせつなのは、故人を偲ぶ遺族の心にある。

そんな内容の本だ。7年前に作らせてもらった。初版の8千部でおしまいかなあと思っていたら、すこしずつ売れはじめ、東北大震災後にも売れつづけ、ついには累計13万6千部となった。いま続編をつくっているところだ。ちなみに、ぼくの本業は執筆と編集。山里でもこうした仕事なら、やっていける。

さて、いまの葬儀のありようはいそがしすぎる。準備がものすごくある。親戚とのやりとり、たくさんの参列者とのやりとり、お坊さんとのやりとり、香典返し、精進落とし、御逮夜だの初七日だの。遺族がゆっくりと、故人を偲ぶということが難しい。そこがいちばん大切なのに……。

そうして、やれ戒名だ、お布施だ、お墓だ、料理だ、香典返しだのと、すごくお金がかかる。心も肉体も疲れる。それが、ちゃんと内実が伴っていればいいけど、世間体とか、儀礼とか、いままでのしきたりとか、そういもうのに支配されて、仕方なくという場合も多い。本質をみすえたシンプルで心のこもったおくりかた、供養のあり方を考える場をつくっていきたいものだ。

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