日々のエッセイ
9.292016
町としての独立した行政力があれば、いろいろ手が打てる
土地も家も貸すつもりはありません。80を超えたその方は、そう言った。畑で耕しているときの立ち話。代々庄屋の家で、たくさんの土地がある。畑がある。山がある。そのまま住める空き家ももっている。
土地や家の管理はたいへんだ。貸したほうがラク。しかし、かれは言う。土地はたくさんあっても意味がない。子どもたちもいらないと言っている。あとあと厄介にならないように、まとめて売ってしまいたい。二束三文でもいい。
個別に貸したりすると、まとめて売りにくい。居住権だの主張されると、手間どる。いま太陽光発電で土地がほしいという業者がいるし。まとめて売ってしまおうと思う、と。
中山間地のすがた。子どもたちはみんな〈まちなか〉に出て帰ってこない。のこったお年寄りたちは、広大な土地をもっていても、活用する道がない。管理もできない。子どもたちもいらないという。だから、処分したい。そんなことをよく耳にする。
しかし、売りたくても売れない。買い手がいない。で、結局、売れずにそのまま放置されてしまう。草ぼうぼうの土地、耕作放棄地、荒れた山になっていく。
町としての独立した行政力があれば、いろいろ手が打てる。春野は、通勤圏としての可能性はまだある。山里で子育てしたいひともおおい。農業を目指したい若者もいる。だから、若い世代に向けて住宅を提供するとよい。たとえば、町が空き家を買って補修して、町営住宅にする。土地を買って若い夫婦向けの町営住宅を建てる。過疎化に歯止めがかけられる道はある、と思う。
だが、市と合併して、春野には町としての〈統一人格〉が、もうない。市は、特例として、春野ばかりに、そのようなことはできない。「一律平等主義」でいくからだ。どうして春野だけ、そんなことをするのだ、という他の町からのクレームも困る。だから手が打てないし、打たない。
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