日々のエッセイ
6.32018
ひとり暮らしの不安は募る。もはや限界に近いという
昨日、図書館の帰りに立ち寄ったMさん。84歳、ひとり暮らし。いつも縁側に座ってよもやま話をするのだった。
この山里にはひとり暮らしの老人は多い。けれども、その多くは、近くに親戚がいる。血縁つながりが多い。さらには、子どもたちがクルマで1時間以内のところに暮らしているので、ちょくちょく訪ねてきてくれる。
だが、まったく孤立に近いお年寄りもいる。この方がそうだ。夫婦で春野でも秘境といわれる山奥から出てきた。本人は関西から嫁いできた。なので、近くにまったく親戚はいない。しかも頼りであった嫁いだ一人娘は、一昨年ガンで亡くしている。その夫は夜勤。孫はまだ小さい。
試練が次々と起きる。92歳になる夫は、認知症で施設にいたが、先週、介護施設から救急車で運ばれた。クルマがないので、病院に行くとなったら難行苦行だ。
バスで最寄り駅まで1時間ちかく。そこから、またバス。乗り継ぎが悪いと、2時間待つ。そうなると浜松駅まで電車で30分。そこからバスで1時間余。帰りもバスを待つこと2時間。また1時間もかけて帰宅。そのようなことで、一日がかりの見舞いとなる。気力も体力も使いはたす。
ひとり暮らしの不安は募る。もはや限界に近いという。しかし、いまの現実は現実。どうしようもないこの現実を受け入れるしかない。
自分はいつ死んでもいいと思っている。明日でもいい。84歳まで生かしてもらったのだから、人生はもう余録と思っている。そんな話をしたのであった。しかし、他人事ではない。いつか我が身にならないとも限らない。
ただこうして、語り合っていて、とても落ち着いた方である。ぼくのほうが、かえって安らかさをいただいているほどだ。
きょうはこれから、インドで40年布教した僧侶の講演会の主催をしているので、あかりも連れて、町中にでかける。朝、途中までクルマに乗せてさしあげることにした。いろいろと語り合いながら。ぼくにできることは、これくらいしかないけど。
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山里移住のひとつの大きな課題は、まったく血縁・地縁のない中、落下傘でおりるようにそこに暮らすということですね。
若くて元気なうちは、次々とネットワークをつくっていける。けれども、年をとると、なかなかそうもいかない。
広大な土地があれば草刈りなど、たいへんすぎる。年をとって病を得ていくと、いろいろ難行になります。やはり頼りになのは、家族と親類ということもあります。
また子育てなどは、自然環境が豊かで山里はすばらしい。けれども、ちかくにじいちゃんばあちゃんがいないと、お母さんに大きく負担がかかってくる。保育園も近くにはない。学童保育もないとなると。これはたいへん。