日々のエッセイ
10.172016
「アイガモそのものを飼う」という道もあるか
来年のアイガモをどうするか、というところで考えている。アイガモ農法の発想は、完全無農薬の田んぼづくりから、きた。除草剤は使いたいくない。使わないと、ものすごい草が生える。人力ではたいへんすぎる。その除草をアイガモにやってもらうのだ。
アイガモ農法にすれば、草取りはまったくいらない。そこはラクだ。しかし、そのためにアイガモの管理がたいへん。なにしろ「生きもの」だからね。思うようにはならない。
ことしは72羽を育てた。逃げたり寒さで死んだり、外敵(じつはうちのランだった)にやられたりで、いま残っているのは40羽程度。32羽も死んだり行方不明ということになる。網張、エサやり、エサ代、脱走したカモの捕獲、育ったカモの処分などたいへん。
しかしそれは、たくさん飼うからたいへんなので、10羽くらいとか、数を少なくして飼えばいいかな、とも考える。そして、人力による草取りでも、対応できないわけじゃないのだ。冬水(ふゆみず)田んぼと初期除草の徹底で、うまくいくかもしれない。
そうして、アイガモ農法の目的は草取りだけじゃない。めずらしい、かわいい、ひととの交流、地域の魅力づくりにもなる。なので、「アイガモそのものを飼う」という道もあるか。アイガモを草取りの主な目的としないのだ。
たとえば、田んぼの半分をアイガモの専用スペースとしてしまう。そこをアイガモのホームグランドとする。そこでアイガモが卵を産んで、育てる。そんな場にする。他の田んぼには、スポットでアイガモが出張して草取りをする。そしてまた、ホームグランドに帰ってくる。
さらには、アイガモのいる里山としてアピールしていく。〈まちなか〉から遊びにやってくる。地域のひとたちもやってくる。子どもたちも見にくる。ひととひとの交流の場にしていく。そんな場に。
さいわい、いまの借りている久保田の田んぼのフィールドは、景色もすばらしい。清流が流れている。桜が見事に咲く。ホタルもあらわれる。地域の人たちをまきこんで、美しい里山をつくっていくこともできると思う。
だが、掛け声だけじゃできない。人も動いてくれない。環境整備にお金がかかる。アイガモのちゃんとした小屋、観察できるベンチ、雨よけのための東屋、標識、案内パンフレット、網も張る、エサも確保する。こうしたことは、ボランティアじゃつづかない。みんなでお金を出しあおう、となったらだれも参加してくれないかも。
どうするか。売上など皆無。やはり、助成金だ。企業のCSRに対応していく。民間の環境市民活動助成などに企画提案していく。採択されて資金の裏付けができたところで、「この指とまれ方式」で、すすめていくということになるか。
こういうことは、みんなで考えを出し合ってすすめていくと、えらく時間がかかる。「総論」としては、あれこれ意見はでる。しかし、じゃあだれが金を出すのか、リスクはだれが背負うのかという「各論」になると、止まってしまうことが多い。ということで、ぼく自身が企画して、いくことになる(もちろんみんなの意見を聞きながら)。
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