日々のエッセイ

いちばんの問題は「統一人格」がなくなってしまったこと

旧市町は平成の大合併で10年余になる。いちばんの問題は「統一人格」がなくなってしまったこと。この町をどうしようか、ああしよう、こうしようという思いを伝え、思いを形にする「核」がなくなってしまったこと。

大きな市の一部になると、それまであった町の独立した権限や予算はもうない。自由に考え、自由にルールをつくり、自由に予算を配分するということがなくなる。

かつての役所は、市の出先機関となる。そこの責任者も、定年退職前のお役人が就任する。まあそうなると、なにごとも「慎重に」「無難に」ということになりやすい。面倒なこと、リスクのあることは、先送りにならざるをえない。

大きな市と合併すれば、予算もなんとかなる、福祉も教育も、先行き不安がなくなる。大きな投資もやってきて、仕事も活気づく。そんな期待があったろう。すなわち、「長いものに巻かれろ」「寄らば大樹の陰」だ。そんなありようが、日本全国で大合併になっていったのだと思う。

合併しなければよかった、という旧市町の住民の声をよく聞く。まあ、いままでなんでもやってくれて、安閑としすぎていたのかもしれない。合併して初めて現実を知らされたということか。

そりゃそうだ。大きな市からすると、たかだか人口が5千人もないようなの山里のことなど、大きな課題ではない。なにしろ市の人口は80万人余もあるのだ。
山里のことなんかより
たいせつなのは、「まちなかの賑わい戦略」だ。そして、これはいまの国家戦略である。若い人たちが、この地方の中核都市に就職してもらわなくちゃいけない。雇用の確保が大切。文化発信の施設も充実させたい。そちらにエネルギーを集中させたい。

これが、もしも合併しなかったらどうなったか。仕事はない。若者は出ていく。年寄りばかりになる。産業はない。役人の給与も確保できない。インフラの整備もできない。学校の維持もむつかしい。先行きの希望はかなり厳しい。

しかしそれでも、自分たちで考え、工夫し、自分たちでなんとかしようという気概があったろうと思う。町としての自由な、誇りある、根性の座った暮らしぶりがつづいていつたのかもしれない。

けれども、合併したことで、そういう気概は感じられない。市はこれをしてくれない、こんなことやってくれない、ああもうこの山里はダメだ、もう無理だ……みたいなエネルギーが浸透していると感じる。

移住者がこの山里に住んで、よく言われること。ぼくは何人にも言われた。「よくもこんな山里に移住したねぇ……」「こんなとこに移住してきて、かわいそうだ」とも。

地域の誇り、自信、伝統の輝き、そういうものが衰退していっている。移住者からしてみると、とってもすばらしい宝の山に見えるだけどね。

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