日々のエッセイ
10.102017
山里というのは、ほとんどが親戚つながり
ちかくの公園で草刈りをしている方に声をかけてみた。ぼくは知らない人でも、声をかける。そこからつながっていくから。話をすると、奉仕で草刈りをされていた。集落の人たちとは、家系を辿っていくとほとんどが親戚つながりになるという。
あらためて気付かされる。山里というのは、ほとんどが親戚つながりなのだ。
昔は、ちかくの集落、ひとつ山を超えた集落の人との婚姻になるわけだ。しかも、きょうだいは8人とか10人とかたくさん。だいたい先祖がかぶることになる。
4代前の高祖父母は16人。8代前は256人。12代前は4,096人。きょうだいの分も含めれば、ものすごい数になる。で、集落のほとんどが親戚となるわけだ。
山里に移住するのは、そういう血縁集団のなかに、入るということでもある。単独で落下傘で下りたようなものだ。
しかも、幼なじみたちの付き合いの中に、である。80になってもたがいにいっちゃん、ちー坊、あさ姉……などと呼びあう。気心のしれたつながりばかりの中に。
そうして、やれ毎月の常会だの、庚申様の集いだとか、祭りだ、葬式だ、草刈りだ、河川の清掃だと、なにかと集いがある。
移住者というのは、気心が通じるまで時間がかかる。歴史を共有していないので、話題にも入りにくい。波動というか雰囲気もちがう。転校生みたいなものだからね。
さらには、山里の人たちは、話し上手ではない。こちらのことを聞いてこない。こちらも、聞かれなければ、すすんで話すことはない。コミュニケーションの苦手な人は、孤立しやすいわけだ。
こないだ民生委員を務めた方と話した。ひとり暮らしの移住者だが、すすんでその務めをされた。かれはつぶやいていた。ここは何十年暮らしても、よそ者でしかないんだなぁ、と。
のどかでいい人ばかりという、テレビ番組の「人生の楽園」のようなわけにはいかない。だからこそ、人間関係を作っていくのがおもしろいともいえる。また、所詮はほどほどでいい。縁のあった人とだけのネットワークをたいせつにしていけばいい。それも可能だ。まあ、どんな地域、世界にいても、そこはおんなじ。
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